さて、続き。
僕としては、ここからが本題。
石垣島から帰った関空で、
凄まじいマナーの、中国人観光客のお店での姿を見たわけだ。
それ一件だけで石垣島に劣らない強烈なイメージだった。
それから母ともう何回目か分からないトラブルは起こる。
僕は母を西宮の実家に送り届けた。
数十分休んでから再び大阪に出てサンダーバードと新幹線乗り継いで富山に帰った。
母は「一日目で充分、楽しかった」と別れ際に言っ(てくれた)が、
(これは 上から目線の・・・)
僕は顔を見る事もせず、「そう、ですか。」と棒読み。
僕らしからぬ。
母に対して、初めての、ささやかな反撃だった。
石垣島23度、富山はマイナス1度。雪が積もっていた。
毒親。母の場合は毒母、とも。
その子ども、アダルトチルドレン。
カテゴライズしてはいけないんだけど。
よく「不満を持つな、感謝せよ」、という。
明けて今日、ずっと考えたね。
外界は自分の内面の反映だというけれども。
この間、その話をかまちゃんとしたばかりだけれども。
わの舞の、天の舞を踊る時、結構みんなばらばら。
僕は歯がゆく思うんだけど、
そう思った瞬間、僕はみんなから分離してしまっているんだと。
ただただ、自分が淡々と舞っていく。(多分 大きな愛で包みながら)
すると、揃ってくるんだと。
この間試してみて、うまくいかなかったけど、
これはつまり、
母 ←困った人、毒親と思った瞬間、僕は彼女と分離してる。
カテゴライズした瞬間、分離してる。
中国人グループ ←マナーをわきまえない、周りを読めないe.t.c.
自分はその人たちと、分離してる。
個人と、個人でとらえているから。
そうではなく、
母もあの中国人グループも身のうち、自分もそこに属する全体、と考える。
そして、淡々と自分はそのまま自分の軸と空間を整えておればいいわけだった。
仮にも、わの舞をやっている者であるならば。
人を裁く、咎める、ジャッジする、というのは
対「個人」で考えているからで。
そうじゃない、みんながいち家族、のように?
マナーだとか、母親の言動などというものは
人間の頭で作った小賢しいものの一部に過ぎない。
それこそ、もっと大きなもの、ファジーなもの。
小さなことで決めつけてしまわない。
そうすれば母や中国人が何を言おうが何しようが、
動じないはず、ひっかからないはず。
愛でもってこの世のすべてを揃えていく。
それが空間を整えるということ。
それこそ、わの舞。
もうずっと睡眠導入剤なしには眠れない身だが、
最近読んだ本に、こんなことが書いてあった。おのころ心平の本だったと思う。
あんまり正確には思い出せないけど、
眠る、というのは個人から離れて、
人類全体の集合意識に還ること。
人とつながれていないと、自分の部屋にこもったままの状態なので
集合意識に還れない=眠れない、ということらしい。
僕は、人とつながれてないから。
もっと言えば、母や中国人たちは、僕の一部。
僕が宇宙の中心で、神であるならば(変な宗教の意味でなく)
自分の身から分離させてしまったならば、
それ自体神である自分と同じ力を持つ。
そして、僕を「責め、さいなむ」存在になる。してしまう。自分で。
個人でなく、全体、になること。
今は自然栽培の野菜やお米、ジャンク、に
昔より柔軟に対することができるようになったけど、
自分が食材に対して思うのと同じように、
もっと人に対して、対し方を、愛を持って調節できるはずで。
母やその中国人たちが粗い波動を出していても、
にこにこ、ゆったり穏やかな気持ちでいられるはずで。
むしろ、ほほえましくすらあるはずで。
かわいくてたまらないくらいのはずで。
その時、僕は本当にわの舞が踊れているんじゃないかと思う。
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個と全体。「つながる」ということの本当の。
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