夕方4時半になっても明るい。
日差しが伸びてきました。
今日は旧正月です。
富山、大雪。
車は時速20kmでゆっくりと雪道を進めます。
立山連峰の撮影ポイントはもう雪で、車も進入できない。
家のそばを流れる世界2位の急流、常願寺川から富山湾を臨む。
水平線に見える山のようなのは、能登半島です。
朝、寒い中二階で身支度をしていると、むろやんが
「お嬢様。」といれたての熱いコーヒーを捧げ持ってきてくれます。
一昨日、昨日、とスーパーのレシートが連続で
「2222」、「3333」と出ました。他にも「111」。「33」はおなじみ。
上ときちんとつながっている証か、上方向から熱い血液がきて、
体を循環しているようです。
最近、身を持って分かってきたことがいくつかあります。
自分の手にあるものをしみじみと喜んでいると、
与えられる。
これは前に皇祖皇太神宮にお参りした時に来たヴィジョン通りで。
過去のこと、今のこと。ああ、こんなだったんだ、と
嬉しさ、喜びをかみしめて、気持ちが幸せにひたされていると、
思ってもいない大きな喜びや出来事、お金が与えられるのです。
逆に自分で、「こういうことが起こればいいな」と
期待していると(設定していると)、おもしろいようにそれは
実現しません。
期待しないで、頭からっぽにして、なんとなく確信にみちて安心している。
と、それ以上の、思った以上の喜びが、与えられるのです。
なので、最近与えられっ放しで、すごく満ち足りているのです。
宇宙から溺愛されているみたいに。プレゼント攻勢にあっているみたいに。
それと、
自分はすでに、ゴールしている、ということ。
「ありのままでいい」「あなたはそのままで愛されている」という言葉が
いまいちピンとこなかったのですが、
これなら、自分としてはしっくりきます。
「死ぬ前に一度は恋愛ってしておきたかった」と思った
その恋愛も、まだしていないけれど。
以前想い描いていた生活基準にはほど遠いけれど。
周りに理解されている、とは言いがたいけど。
自分の性格、ここ直さなきゃ、と思ったりするけど。
でも、それはもう、瑣末的なことで。
今世で恋愛一度も経験してなくても。
海外旅行も、もう要らない。
洗面所や脱衣所、ドレッサーなど、なくても、いい。
誤解されたままでもいい。
親兄弟とかみあってなくても、
私の苦しみが周りに理解されなくても、
耳鳴りから解放されていなくても、
もう、全然。
それは、もうどうでもいいことで。
もう、すでに私はゴールしてしまっているんです。
もう、一生懸命、走らなくていい。
磨かなくてもいい。
人生の目標に、もうこれで、とっくに到達、クリアしている身である、
ということに気がつきました。
すでにゴールしていて、
あとは紡いで、重ねていくのを楽しむ過程なのです。
深めていく過程を楽しむだけなのです。
わの舞を自分なりのやり方で社会に還元していくだけなのです。
すると、欲望も少なくなります。
今までは食べ物、料理、食べ歩き、カフェめぐり、カメラが趣味の一つでしたが、
それも消え去った。
関西に行ったら、これでもかというくらい、
美味しそうな体によさそうな食材があふれているのですが、
悶絶しそうになりますが、
食材の乏しい富山の郊外のスーパーで、基本的なものさえ買えれば、
それで、いや、かえって美肌も体調もキープできるのです。
成城石井なくても。
生きていくのに必要なものは、そんなにないのです。
独身の頃、何十万もする服や骨董品、海外には仕事で行ったりしていましたが、
一人で高級ホテルで高いものいただいていても、幸せでないんです。
それより、みんなで囲む食事だと、器が百均のものであっても、
すごく幸せなのです。
インスタントのビーツのスープ見つけて、
都会ではこんなの気軽に手に入れられていいなぁ、と思いましたが、
野菜の切れ端をストックしておいたので作るスープの方が
どんなにか美味しいと思うのです。
苦労してビーツを手に入れることはない。
ビーツやビーツのインスタントスープを手に入れよう、と
そのためにお金やエネルギーを使わなくていい。
手元にある、富山産のキャベツの芯をことこと煎じればいい。
それから、
何もないと、入ってくる、ということ。
仕事でお部屋の掃除をしている時、
その方の荷物などがあるとどうしても手が届かなくなります。
何も置かれていないと、その方のスペースのすみずみまできっちり掃除できる。
むしろ、どんどん心の垢を出してください、という感じになる。
これ、宇宙とか神様とかの思うことです。
物があると、そこ掃除されるのを拒んでいるよう。
散らかしていると、そこを最低限きれいにしてあげることまでにしか
手が回らない。
同じことが体の中、心、魂にまで言えるの。
心のブロックがあると、手が及ばない。
他人のそれも、以前よりもよく見えるようになってきました。
わの舞でも同じで。
最近、かまちゃんの講習で、ものを一言も発しないまま、
来て、舞って、去るようになってきているのですが、
(富山から関西に来て!)
何も言わないことによってかえって豊饒な、満ち足りたものになっています。
その方がなおのこと、たくさん情報が入ってくる。学べる。
かまちゃんの講習は、本当にすばらしく、深いです。
もう、学ぶことないかと思っても、毎回、舌を巻きます。
自分がまだ浅いことを思い知らされます。
舞っても舞っても、まだまだ、先があるのです。
舞う時の、時間の長さもなんだか発見しました。
時間って、同じ時を過ごしてても、人によって違う。
あ、これは当たり前か。言葉にすると。
御柱の舞やあゆみの舞、天の舞、大体4〜5分くらいなのですが、
今、その5分が膨大なゆっくりした時間の流れに感じられるようになってきました。
普通なら一瞬、とか時計そのままに5分、なのでしょうが、
気の遠くなるような、壮大な映画でも観ているような、一夜の夢を見ているような、
そんな5分になるのです。
「千と千尋の神隠し」で、たくさんの経験して時間も経ったのに、
あれ?両親にとっては一瞬のこと?というような。
「マトリックス」で、ネオが弾が止まって見えて、簡単によけられるような。
ものごとが、スローモーションで見えてくるのです。
気持ちが別のところにいっている時に舞うと
「あれ?もう終わり?」ですが、
気持ちが無心になっていると、一つの振りが、5分とかに長く感じられる。
気がする、でなく、本当にそんな時間の進み方をしているようなのです。
すごく不思議だけど。
物理とかで時間の伸び縮み、で説明できそうだけど。
同じわの舞その場で舞っていながら、多分、人によって感じている時間が違う。
御柱の舞を舞う前にスタンバイしている時は、
途方もなく長い航海に出るような気持ちです。
よく、舞がきれい、と周りからほめてくださったりしますが、
前、踊りをやっていた、と言うと「そうか、それでねぇ」とそこで納得して
行ってしまう方が多いのですが、
踊りをやっていたから、ではないのです。
むしろ逆のことをやっていたから、やり辛い。
ダンサーとしてもすごく不器用な方だと思います。
ただ、かまちゃんに言われたこと、踊っている姿を、
自分を透明にして写す、移してきただけです。
料理でも、素材が透明になった瞬間というのがあって、
そこに「写す」「移す」のです。佐藤初女さんの言われるように。
自分が「無」になっていないと、心、体にブロックがあると、
物事、事象、周りの景色なども入ってこないです。
そういう、ことです。
けっして、私が踊りが元々できる人だから踊れる、ということではないんです。
あと、言うなら、わの舞の深さを知ったので、毎日でもやっている、ということ。
一日5分でもやれば、5つぐらい、同じ一つの振りでも発見があります。
それが楽しいのです。
それを積み重ねるから、私がやる一つの振りには、
100の発見の喜びが隠されています。
それが多分、ほめられるような動きになっているゆえんかと思います。
こんなに不器用な私が、なんでこんなに踊りが好きで、踊っているんだろう?と
つくづく思います。
母方の祖母、元々岐阜の郡上八幡の方ですが明治45年生まれ。
日舞をやっていたらしく、そちらはあまり知らないのですが、
普段着が着物の人でした。
幼い頃、謡曲に祖母が通っていてそれに連れられて行ってたので、謡も好きでしたね。
雰囲気も好きでした。
後で自分が仕舞を習う時も、自分の番でない時は他の方が舞われる曲を
みんなで謡って、その時はもう耳聞こえなくなってたので、
節の細かいところは分からないなりに楽しみつつ謡ってました。
母は小さい頃、お琴を習っていて、
お琴の師匠さんは目の見えない方だったのですが、
「(正座はもういい、)足をくずしなさい」とか、
「だれだれさん、今日は明るい顔してますね」とか、
お茶を出す時、
「左手をなんとかしなさい」と、
添えていない左手をたしなめられたりとか。
そんな話を、先日関西の実家に戻った時に聞きました。
祖父も明治の人ですが、海軍で、ヤップ島も行った人なのですが、
昭和天皇が皇太子の時、
御前でおちゃめなことして唯一笑わせた人間だったのだそうです。
両親も社交ダンスの先生で、私自身、社交ダンスは好きでないですが
踊りが好きなのはその辺り、DNAなのかもしれません。
今、老人施設で清掃のお仕事をしていますが、
かなり嬉しく働いてます。
施設の近辺の方が普通に清掃の仕事するようになったらいいのに、とも。
手の空いた人が、清掃や話し相手など、自由に出入りして。
オープンな施設、ですね。
子どもや高校生など。
そしたら社会も変わるのに、と。
そうミーティングで話したら、
その日の夕方、テレビで「富山型デイサービス」が
相次いで休業に追い込まれている、というニュースが流れました。
この「富山型デイサービス」というのは
高齢者、障害者、子ども、と縦割りで行政を行なうのではなく、
みんな一緒に、というスタイル。
おじいちゃんおばあちゃん、幼児、高校生などがともにいて、
助けあう。
前に発案者の方のお話も聞きに行ったり、
知り合いも何人かが「富山型」で働いていたりするのですが、
繋がってきました。
昔、30代前半の頃、一緒に活動していたミュージシャンの方々に
その頃50〜60代だったと思いますが、
「おれらの老人ホーム建ててくれー」と言われていました。
ろう者専用の老人ホームを作る話もありましたね。
仕事先に、重度心身障害の高齢者の方もおられます。
その方の人生や、心持ちを思って、
すくいあげて代表のような気持ちでわの舞、舞わせていただいています。
その方の代わりにもなって。
前に見た、聖らかな顔でベッドに伏しておられたおばあちゃんの顔も
思い出されます。
もうよそに移られたのか、今は姿を見ない。
でも、あんな無我の、美しい顔になりたいな、と、
ひそかに「星野 菫(すみれ)さん」って名前をつけまして、
憧れの一つです。記憶の中にだけ存在する。
先日、朝起きたら、しぃぃん・・・・・・と静かでした。
????と思って、「あっ」ぽんっ、と手を打って、
「私、耳聞こえないからかー。」と思いだして
そのまま朝の用事をしていました。
後で気がついたら、その瞬間、「静かだ」と思ったのは、
その時、耳鳴りがしていなかったから。
それでやけに静まり返っている、と感じたのです。
今も耳鳴りしてるけど、そんな具合に、
ひょいっ、と止む瞬間があった、ということ。
今日は新月です。
「新月のお願い」って、もう、お願いすること、なくなったなぁ。
欲がなくなった。
お願いから、お祈りにシフトチェンジになりました。
ただただ、これからも自分の体、心を大切にしていきます。
自分のものではないから、大切にするのです。
私の体と心を大切にするということは、
あの人の心、あの人の体を大切にすることと同じなのです。
今はただ、静かに過ごしましょう。
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自分はすでに、ゴールしている。
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