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Channel: 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)
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誰かに見守られている。力をくれる。

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循環する悼みと愛。

7日の日だったかもしれない。

Kちゃんにつきあって庭作業している時のこと。自分が弱っていて体がままならない。弱いがゆえに、採血跡を見せてKちゃんにほうきで掃くのをお願いできた。大きなほうきで庭を掃くKちゃん、花がらを拾う私。私と子どもが戯れている様子を見て安心したのか、向かいの方が私たちに話しかけKちゃんにお菓子をくださった。さらにその方が私に植物のことを相談する様子を見て、Kちゃんはなおのこと安心して「ねえねえー」と私を突っつく。


Kちゃんが作ってくれた用水の堰をその方にお話ししてKちゃんを褒める。その堰を利用して、その方も庭に水をやり始めた。

信頼、安心感の静かな循環。その通低には虐待された5歳児への悼みの心がある。誰も口には出さぬ。長い期間にわたる虐待により、胸腺は5分の1の重さにまで萎縮していたという。胸だ。


8日の夜は割に落ち着いていた。「繋がっている。」となぜか確信に満ちて眠りについた。

魂は記憶し続ける

しかし9日の昼過ぎに急に大きなパニック発作になった。自分が自分でなくなるくらいに。隣の家に逃げ込むことも救急車も病院も許されず、必死に尼寺に避難させてもらった。車道を一人歩いていく尼僧の後ろ姿が目に焼き付いていた。


曹洞宗の、女性が修行するお寺だった。不動寺という。3時間、波をこらえた。その後、夜になっていたが街の方に出てマッサージを受けた。もうこの世でない体みたいだったのが、少し現世の体に押し込められた。現世が遠かった。


昨日10日。住職さんにお礼を返そうとがんばって歩いた。童謡を歌った時の元校長先生の女性の言葉「緑の中を歩くとよい」も心にあった。片道15分のところを3回、休み休み。老婆みたい。住職さんにいただいた言葉を胸に、この辺りで無料で借りられる家はないか見ながら。


尼寺でお礼を尽くして、向かいの滝社の、滝のところ。小さめの滝なので一筋の滝の音が胸に心地よく響く。


ここなら耳鳴りも和らいで聞こえる。もう今年のトンボがいた。外の緑のところにいると、神経が安らぐ。家にいると何かしら用事をしてしまう。



用水添いの桜の樹が、ほとんどウロになっているのに葉を繁らせている。


写真を撮っていると、おじいさんに話しかけられた。竹細工のトンボの話になって、わざわざ家に取りに帰って持ってきてくださった。フィールドワークしている人に見えたらしい。トンボで繋げられた。

そこにさらに通りがかりの、郷土史研究者みたいなおっちゃんも加わり、「ブラたもり」のような状況に。しかもおっちゃんはこの辺りの不動産をやっているという。この辺りは山の森を切り開いて作られたところだから湿気が多くて健康によくない。借りない方がいい、との言をくださった。なんだかつるつると繋がる。

おじいさんは御歳88歳。常願寺川に昔は吊り橋があり、木舟の渡し船があったこと。板と泥を重ねた道で足元が悪く、骨を折ってしまう馬車馬。世界屈指の暴れ川ゆえ薪にする木がなくて、わざわざ電車に乗って上流へ行っていたこと。子どもの頃、肥桶を担いで山道を登り10円貰っていたこと。都会は棒手振り。田舎では一つの桶を肩に担ぐこと。


氾濫しないよう常に願うから常願寺川。

この地はなぜ不思議な造りで足元に水が流れているか。安政の頃、川はそのあまりの早さに夜に火花が見えたこと。石同士がぶつかるカチカチという音が家まで聞こえてきたこと。板を取ろうとして流された人たち。わざわざ家を解体せねばならないこと。桜の樹の命がもうあまりないことなどなど……。シャーロック・ホームズとワトソンのような感じで、3人がうまく噛み合い、お互いの需要供給を満たした。みんな初対面なのに。

生きた歴史。肌身に迫る。リアル。


2時間も喋っていた。二人を繋げた役目も果たしたかと、私は急ぎ家に帰っておにぎり2つこしらえ、呉羽の市民芸術創造センターに向かう。

車の中でおにぎり食べるのがやっとで黒足袋草履もない。見学だけ、と思っていた。生の胡弓が聞けたならそれでいい。でも7月に技能審査会が控えているので会場は受験モードになっていて、結局教えていただきながら踊ってしまった。

まさか、踊れてしまった。

体も頭もあまりいうこときかないけど、2時間。全身に血が巡り、濃い脂汗をびっしりかいた。踊っている方が体が楽になる。

「踊る場」の持つ力。

昔からの「型」に沿って踊ること。細やかな所作の心配りを知りつつ。先人の心を追う。おわらを愛する気持ちがより集って作られる「場」の力。

そして見守ってくださっている人々の目の力で踊れた。

前は厳しい言葉を言われた方も、私の性質を知った今は「間違えても、いいのよ。」と言ってくださる。

他の方々も細かく私の踊る箇所のどこがどういけないのか、二人で考えて、講習会の終わった後最後の最後、会場をはけるぎりぎりまで伝えてくださった。

踊りの力はすごい。生きる力をたちどころに呼び覚ます。

そのあと作業服のワークマンでシャツを買って汗びっしょりの服と替え、夜に近くの温泉に入った。冷えていた体がざーっと血の巡りがよくなった。

温泉から出るとまた血が動かない体に戻ったけど。


この日午前中、尼寺に向かう折、庭でカナヘビの、生きている時とは全く違う姿で死んでいるのを見つけた。先日助けた人とは別の個体かもしれないが、もしこのカナヘビが同一人物だとしたら、どんな気持ちでここに戻ってきたのだろう。


あの時自分の命よりも優先してカナヘビを見守れて、よかった。カナヘビを一人で逝かせるのではなく、回復するまできちんと見届けられ、見届けた(A)、という魂の交流は残る。


肉体の儚さ。肉体は朽ちても魂の交流の経験は魂の記憶に残されていく。肉体のみ、移り変わる。「A」という体験をだけするために。Aという体験をつくるための、カナヘビと私。

個体に累積するのではなく。よく私たちが陥りがちな、功徳はBという個体に付随するのではなく。Aをした私、ではなく。BさんがAをしてくれる、その時BさんがAをしてくれた、ではなく。

単にその時点でのAという体験をなすためだけに肉体は、存在する。

A。命を見守るという「御わざ」。


おわら講習会で踊れたのも、みんなが見守ってくれている、という安心感もあったと思う。大きな、包む力。


 
病院で検査の結果を聞いた。女性ホルモンは正常値だった。

名状しがたい、体の内側からひきつれるような感覚。血が巡らないよう。重いエネルギー不足。気虚という状態か。

女性ホルモンなど、むしろ今まで停止していたのが普通通り分泌されるようになって、体のバランスが一時的に崩れているのかもしれない。体が慣れるまで。

おわらのゆったりした胡弓の音色。

唄われよ わしゃ囃す


今、私に伝わった。

おわらの歌い出しの前の囃子の言葉に込められた意味。

唄われよ、は自分の生命を歌いなさい、私はそばでしっかり見守っているから。安心して普段出せない想いをここでは出しなさい、という必死の想いが込められているのが。





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